in Poland 01-Oswiecim
ハンガリーのブダペストで「ドナウ川 遊歩道の靴」というホロコーストの象徴とされるモニュメントを見て、この機会しかないと、アウシュビッツに行って来ました。
第二次世界大戦中、ナチスの迫害によりユダヤ人が川辺に並ばされ、後ろから銃撃されてドナウ川へと沈んでいった。
計5千人近くの人が命を落としたと言われている。
ネットで色々調べると、アウシュビッツにて日本人で唯一公認ガイドをされている中谷さんという方がいらっしゃる事を知り、直接メールを送り、ガイドをお願いしました。
1月7日と決め打ちでお願いしたにも関わらず、直ぐに承諾のメールを返信頂きました。
中谷さんについて、またアウシュビッツまでの行き方については下記のサイトが凄く分かりやすくご説明されてます。
もし、アウシュビッツに行かれる事があれば是非、中谷さんにガイドをお願いされるべきです。
難民問題、北朝鮮問題等現代の世界情勢、また日本の立場等々も交え、凄く分かりやすく説明して頂けます。
実際にアウシュビッツを訪れて、自分の気持ちを忘れない為に以下文字に起こします。
ワケワカメな事を言ってるかも知れませんが、自分の整理の為のメモ書きです。
悪しからず。
▷アウシュビッツ第1強制収容所
冬の朝、当然ながら木に葉は無く、薄っすら霧がかかっている。
天気もどんよりとしていて、今にも雨が降り出しそうなくらい分厚い雲で覆われていた。
そんな雰囲気の街、オシフィエンチムの中にアウシュビッツ第1強制収容所はあった。
アウシュビッツとは、オシフィエンチムという地名の発音が難しいとして、ドイツが第二次世界戦中に付けた名称だそう。
なので、現地ポーランドでは戦前と変わらずオシフィエンチムという名で呼ばれている。
見学は日本人唯一の公認ガイドである中谷さん引率の元、アウシュビッツの施設に入って行く。
この日は僕たちを入れて日本人9人の参加だった。
参加者は予想とは反し、比較的若い世代が多かった。
今は博物館として後世にその歴史を残す施設となっているが、時折、遺族の方も来られるという事で、配慮(大声を出さない)の為、ヘッドホンとマイクでガイドが進められた。
先ず敷地内に入り1番初めに見えるのは、ドイツ語で「ARBEIT MACHT FREI」と書かれたゲートであった。
教科書にも載っているこの施設を象徴するものである。
日本語にすれば「働けば自由になる」と訳せる。
書いてある言葉は今の時代、また別の議論が必要になる定義ではある。
けれど当時のユダヤ人にとって、この言葉は全くの嘘であったという事実だけはわかった。
どの様な気持ちでこの言葉を見たのだろうか。
ゲートを潜るとそこにはレンガ造りの建物が等間隔に並んでいて、また一定の間隔でシラカバやポプラといった植栽が植えてある。
当時、苗木を植えたものが70年の年月を掛けてここまで成長したという。
春にはポプラの木にも葉が付き、さながら大学のキャンパスみたいだと中谷さんはおっしゃっていた。
確かに何も知らずにここに来れば、何かの施設である事は分かるにしても、ここが歴史に名を残す残虐極まりない場所であったという事は想像も出来ないであろう。
この日もツアーや個人などで沢山の人が訪れていたが、年始で学校が始まったばかりという事もあり、来館者はまだまだ少ない方であったという。
その中でもユダヤ人の方々が正装で来られていたのはとても印象的だった。
民族の祖先達がこの地で数え切れない程、
犠牲になったこと。
生き永らえたユダヤ人の子孫であること。
今、自由に生きられていること。
トラウマや使命感等、僕たちが到底想像する事が出来ない感情を抱きながら訪れているのであろう。
ただただ涙を流す女性の姿もあった。
施設内には、看守が自己記録の為に撮った写真や捕虜となったユダヤ人が命懸けで隠し撮りをした写真などの展示もあった。
▲看守が撮ったとされる写真
▲ユダヤ人が撮ったとされる写真
「写真を撮る人によって写る世界が変わる」
という中谷さんの言葉はとても説得力があった。
全てがリアルなのだけれども、目線が違う。
写真はヒエラルキーを映す鏡の様な気がした。
実際、この施設内でもヒエラルキーは存在したという。
当然最上段は看守(ドイツ人)であるが、ユダヤ人の中でも優劣を付けられていた。
強制収容所に運ばれて来たユダヤ人達は、「使える」か「使えない」かの大きく2つに振り分けられた。
連れて来られた瞬間に、およそ70%の人々が「使えない」と判別され、ガス室へ連れて行かれ殺された。
「使える」された人は生き長らえる事が出来るが、人権など保証されるはずがない。
労働力若しくは人体実験等へと回される。
逃げようとすれば有無も言わさず銃殺される。
しかし、看守と上手くやれば出世が出来、良い仕事が与えられる。
良い仕事といえば語弊があるが、労働力の上に立ち指示が出来るということ。罰することが出来るということ。
つまり、働くのもユダヤ人であり、監視するのもユダヤ人である。
何かあればそれを罰するのもユダヤ人となる。
ここに最大のヒエラルキーが存在し、人間の本質的な脆さを垣間見た気がした。
実質的にドイツ人はこのシステムを構築した上で、ほとんど直接的には手を汚していないという。
ユダヤ人を強制連行してくるのもユダヤ人。
整列させ、指示を出すのもユダヤ人。
殺された人々を処理するのもユダヤ人。
アウシュビッツの所長であったルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘスの家が、何万人もの命を灰とした焼却炉からほんの200M程の場所に今も残っていた。
ヘスはその家に愛する奥さんと子どもを呼んで幸せに暮らしていたという。
自ら手を下さなければ見えないもの。
物理的な距離と精神的な距離の違い。
ヘスの子ども達はすぐそこで何が起こっていたか知っていたのだろうか。
今、ドイツではヒトラーの名前を出す事さえご法度とされているが、当時、ヒトラーも選挙によって選ばれている。
リーダーが右と言えば、大衆は右を向き、左と言えば左を向く。
それに逆らえば、反逆者として扱われ罰せられる。
大衆は長いものに巻かれるもの。
そこが民主主義の1番恐ろしいところであって、本質的な部分。
「人は自分を肯定してくれる人について行くもの」
中谷さんの言葉に正直ハッとした。
アウシュビッツの見学を終えた後は、ビルケナウへ移動する。
ビルケナウへは無料のシャトルバスが出ており、20分間の休憩の後、みんなで向かう事となる。
▷アウシュビッツ第2強制収容所(ビルケナウ)
バスを降りると、霧雨が降っていた。
肌を刺す様な冷たい風も吹き始め、着ていたダウンジャケットのジッパーを1番上まで閉めた。
すると、中谷さんが話してくれた。
「近年、地球温暖化で毎年気温が上昇しているけれど、ポーランドの冬はとても寒くて当時は−20〜30度まで気温が下がっていました。」
信じられないけどこれが事実。
シャワーと言って着ぐるみを剥がし裸のままガス室に入れられ殺される。
生き残っても十分な食事も与えられず、果たしてこの冬を越えられるのだろうか。
僕には想像も出来なかった。
ビルケナウの門をくぐると有刺鉄線で区切られた、だだっ広い敷地にまたレンガ造りの建屋が幾つか立っている。
木造の建屋も幾つか見える。
ここはファームか何か?
そう錯覚するくらいの殺風景な広大な敷地。
不思議なくらいリアリティが無かった。
中央に伸びる線路を伝って、強制連行されて来たユダヤ人達。
実際に当時使われていたという箱車も残っていた。
これが20台ほど繋がり運ばれて来たという。
当時、ブダペストからでも3日はかかったという。
ぎゅうぎゅう詰めの車内。
真冬や真夏は想像を絶する環境であったであろう。
衛生面も良いはずがない。
ここに到着することも出来ず、この中で亡くなっていく人も多かったそうだ。
その箱車の麓には小石が置かれていた。
これは追悼のお供えだそう。
更に奥に進むと爆破されたガス室と焼却炉がある。
戦争終盤、この非人道的な証拠を隠す為にドイツ軍はダイナマイトを仕掛けて自ら破壊したという。
煙突だけが幾つも残ったものは、ドイツが敗戦しアウシュビッツが野放しになった時、残された捕虜達が木造の建築を燃やして暖をとった為だそう。
しかし幾つかは手を加えつつ残っていた。
最後にビルケナウの死の門と言われる、看守塔に登りツアーは終了した。
当時の景色と今見る景色
登場人物が変われば全てが変わるのだろう。
今回実際にアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所を訪れて、、、
72年前。
分かってはいたけどそれが大昔でも無く、つい最近の事であるという事実に1番ショックを受けた。
Jan.07.2018 - 旅MEMO
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